世の中がよかったせいか、昔は何かにつけて人間がシャレていましたるね。一例が、ただ
いまの鈴本亭ですが、もとは鈴本亭なんてのはなく本牧亭といったものだそうで、もちろん
わたしなんぞ知りませんが、広小路から上野に向かって行く左側に本牧亭という寄席があっ
てどうやら繁盛していましたが、これが隣の畳屋のために廃席しなければならないことにな
っちゃったんだそうです。
井上という畳屋で、つい最近まで何代目かの子孫がやっぱり畳職人で住んでいましたが、
この畳屋さんの先祖が日蓮宗に凝って、毎日夕方になると講中が集まってうちわダイコで、
ドンツクドンドンツクツクです。ただいまなら防音装置なんて手もあるかもしれませんが、
明治初年のことで、そんなものありません。隣でタイコをたたかれたんじゃ寄席はカタなし
です。そこでじいさま(祖父)が隣へ行って、まことにお祖師様には申し訳ないことですが
どうか夜分のうちわダイコは止めていただきたいもんで、今のように昼席なんてもののない
時代ですから、その代わり昼間でしたら、うちわダイコはおろか大ダイコをたたいても結構
ですと申し入れると、畳屋のあるじが、そうお前さんの方の都合のいいようにはいかないね
昼間仕事を休んでタイコをたたいていたらアゴが干上がってしまう、とポンと断られると売
り言葉に買い言葉で、じいさまも気の強い方だったし、それに信心のことだからたってやめ
ろとも言えず、ええ、頼まねえや、そっちで止めねえんならこっちから立ち退いてやらあと
あっさり本牧亭をやめちまって、往来をへだてた斜め向側に寄席をこしらえて、姓の鈴木の
鈴に、本牧亭の本をとって鈴本亭として開席したのだそうです。
話はあとさきになりますが、この本牧亭という名前について、若いころじいさまに、寄席
なら寄席らしい名前がいろいろあるでしょうに、どうして本牧亭なんてまるで横浜のチャブ
屋みたいな名をつけたんです?ってきいたら、その昔、あの辺は不忍池を海に見立ててちょ
うど小型の横浜のような地形をしていて、今の上野駅の前あたりのところに”金沢”という
有名な菓子屋があったそうです。
寄席をこしらえて何んという名にしようかと思ってるとき、この金沢の看板が目について
そうだ、地形が横浜に似ていて、金沢の向かいだから本牧にしようと、本牧亭としたという
んだからシャレた話じゃありませんか。
鈴本のマクラがだいぶお長くなりましたが、さて前に申し上げた天保の改革で、三十数軒
がたった八軒になってしまった寄席も、明治に入ってまただんだんとふえはじめ、三十年前
後にはなんと二百七、八十軒。あのころ東京市は十五区しかありませんでしたが、どの区に
も四軒や五軒寄席のない区はないようになりました。
講談、義太夫、浪花節という順で、落語の寄席はいちばん少なく、あのころ講談と義太夫
とりわけ娘義太夫とのセリ合いなんてものは、実に目ざましいものでした。
写真は当時の上野鈴本席