寄席の数も少なくなって、落語の定席で畳敷は人形町の末広さんだけになってしまいましたが、
ただいまのお若い方に昔の寄席を知っていただくために、伊藤晴雨先生にかいていただいたのがこ
の絵ですが、いかがです、ずいぶん変ってお感じになりますでしょ。
今では寄席の場内というと高座正面に額がかかっている程度ですが、もとは天井いっぱい贈り幕
で、中でも魚河岸なんかからもらうと見得にしたもので、もっとも魚河岸と兜町はめったなことに
幕をくれなかったものだそうで、それに団十郎でも鈴本でも…団十郎と鈴本をいっしょにし
ては申訳ありませんが…決して魚河岸からくれる幕には団十郎さんへとか、鈴本亭さんへと
か、さんという敬語は使わず、すべて呼び捨てになっていました。
寄席の話とは別ですが、浅草の観音様に大きな提灯がぶらさがっていますね。あの”志ん橋”と
書いた、広重の錦絵にも書いてあるので、あのころ新橋に花柳界が果してあったのかしらと思って
、ある人に聞いてみましたら、あの”志ん橋”は花柳界でなくて新橋の商店会の寄進なんですって
ね…余談ですが。
さて、このさし絵でご覧の通り鈴本亭は二階畳敷、三階がぐるり桟橋になっていて大震災で焼け
るまでありましたが、尾崎紅葉の「金色夜叉」で、お宮がダイヤモンドに目がくれてという評判小
説でダイヤの株がぐっと上ったころだから明治三十二、三年ごろだったと思います。
桟敷でときどきキラリキラリ光りものがするので客の視線はどうしたってそっちへ行きますが、
見ると下谷の芸者で左の薬指へすごくでっかいダイヤの指輪をして、これを手すりへのせて、これ
見よがしに手を動かしているのでピカピカ光ります。つまり落語を聞きに来たんじゃないダイヤを
見せに来たんですね。
帰りに車へでも乗ればいいものを、車へ乗るとせっかくのダイヤが見えないとでも思ったんです
かね。歩いて数寄屋町まで帰る途中、広小路の手前に変電所がありましたが、あの横丁で指輪を強
奪されて…たしか質屋へ持ってったんで、すぐ犯人はつかまったはずですが、それほどダイ
ヤのめずらしい時代で、今だったらダイヤなんか耳へぶら下げたり、外国じゃクツへちりばめたの
なんかがあるんですってね。
この桟敷じゃもう一つおもしろい話があります。三升家小勝…もちろん先代のですが、あ
の小勝が高座へ上ってお辞儀をして、相変らずのバカバカしいおうわさを一席申上げて…と
ひょいと正面の桟敷を見ると、手すりの上へ足をのっけて寝ている客があります。正面だから高座
の小勝から見ると足袋の裏がまともにこっちを向いています。
今のようにイス席ではこんなまねはできないが、昔の客にはわざと意地わるに自分の気にいらな
い芸人でも出ると、いやがらせにこんな真似をする客がありました。
これを見た小勝がお茶子をさし招いて言いましたよ。「ちょいと女中さんや、あんなとこに汚ね
え足袋が干してある。早く片付けておくれ」ってね。