落語演芸会社七年間で解散

  一晩に真打ばかり七人も抜かれ(休演)たんじゃ席亭は安心して商売がしていられない。 これは芸人に、金さえもらわなかったら休んだって文句はあるまいという気持ちがあるのに ちがいないから、月給制度にしたら多少は責任を感じて抜くようなことはなくなるだろうと 落語界としては大英断で落語演芸会社というものをこしらえて、これで落語家は紋付を着た 会社員ということになりました。
  ところが果たせるかな、わたしのこの案に、何軒かの席亭、何人かの落語家は反対で、こ こに東京の落語界は会社派と反会社派の二派に分裂しちまいました。はじめから覚悟の前で わたしとしては人員整理の腹もあったんですから、必要の芸人だけが残れば、あとはむしろ 掃いち(お払い箱)まった方がさばさばとしていいぐらいに思っていたのです。
  その時会社に参加した席亭は神田の立花、京橋の金沢、両国の立花家、浅草の並木、本郷 の川竹、それに上野鈴本、芸人は小さん、圓右、圓蔵、小勝、三語楼、正蔵、さん馬(文治) 圓窓(圓生)それに当時バリバリという人気絶頂の小文治といった顔ぶれで、反会社派の席 亭は人形町の末広、須田町の白梅亭、芝の恵智十といったところで、四谷の喜よしは利巧で すから内またコウ薬の二またかけていました。芸人はのち華柳になった柳枝に、このあいだ 亡くなった左楽ぐらいのもの。
  どう見たって会社派とはくらべものにならない貧弱な陣容で、なあに長いこたあないよ、 反会社派なんていったってすぐつぶれてしまうよ、と腹の中でたかをくくっていましたが、 これがわたしのあさはかなところで、結果はまるであべこべになってしまいました。わたし としては敗軍の将なので、いまさら何も語ることはないのですが、この対戦には完全に敗れ て、いやもうひどい目にあいました。
  前に申し上げた会社派の芸人と反会社派の芸人とでは、実力からも人気からもまるでくら べものにならないはずですが、人気の人と、世の中を動かす人とでは違うんですね。よくあ るでしょう、棟梁(とうりょう)で自分ではノコギリ一つ満足に使えないくせに職人を使う ことはうまい人が。あれですよ華柳、左楽という人は・・・・・芸よりも人を動かすことが 巧くて。そこへいくとその点まるでゼロの会社派の芸人はまるでお話になりません。でも客 が来なくても月給制だから芸人は驚かないが、客は来ないは、月給は払わなけりゃならない はのこっちはまるでお手上げです。
  それでなくても会社派の旗色がだんだん悪くなって、にっちもさっちもいかなくなったと ころへ政治講談で売れてる伊藤痴遊なんて先生が反会社派へ加担して、ヨシ、助けてやろう と会社派へ宣戦を布告したのですから、何のことはないこれで敗戦の色がはっきり濃くなっ た日本へソ連が宣戦布告したようなもので、こっちはいよいよお手上げです。でも歯をくい しばって足かけ七年辛抱しましたが、大正十二年大震災で東京の寄席がめちゃくちゃになっ てしまったのを機会に、どさくさまぎれに演芸会社も解散してしまいました。

写真は伊藤痴遊