よくお客様から、鈴本はいつ頃からやっているのですか?とか、
鈴本演芸場の名前の由来を教えて下さい!というご質問を受けます。
という訳で、鈴本の歴史をちょっとご紹介いたしましょう。
落語界の物知り、御隠居さんのところに、毎度お馴染み八っつぁんが
駆け込んできたところから始まり、始まり・・・・・
御隠居さん、てぇへんだ、てぇへんだ
なんだ騒がしい、誰だい、八っつぁんかい。おいおい、座敷に上がるときは下駄を脱いでから上がるんだ
かまわねぇよ
こっちがかまうんだよ、何だい
御隠居さん、知ってるかい。上野の鈴本がインターネットにホームページをリニューアルしたんだってさぁ
ほぉ、えらいな八っつぁん。インターネットをご存じか
あたりめぇよ、こちとら江戸っ子でぇ。初鰹とインターネットは、かかあを質に置いてでも手にいれらぁ
さすが江戸っ子だな。で何が大変なんだ
鈴本からメールが届いて、なんと鈴本の歴史を紹介してくれってんですよ。落語は好きですしね、鈴本には十日に一ぺんは行ってるんですが、歴史まではよくわからねぇえんで。かかあに相談したら、何でも知ってる御隠居さんに聞いたらと言われましてねぇ、それで来たんですが御隠居さん、鈴本の歴史ご存じですか
そうか、そうか。オイ婆さん、八っつぁんが来たからお茶と羊かんを持ってきてやっておくれ
オイ婆さん、うまい茶を入れておくれよ。オイ婆さん、オイ婆さん、羊かんは厚くお切りよ、 オイ婆さん
おいおい、お前さんまでが婆さん、婆さん言うことはないだろう、ありゃうちの婆さんだ
仲良く、使おう
バカなこと言ってるんじゃないよ
まぁそれは冗談として、鈴本の歴史を早く教えて下さいよ
鈴本の系図によると、初代龍助(1827-1910 三代目仙之助)と言う人がな、安政四年(1857年)に上野広小路に「軍談席本牧亭」という講釈場を始めているんだなぁ。これが鈴本の母体となるわけだ
美味いねぇ、この羊かん。これもあん製だな。ところで安政っていつ頃の話ですか
そうだな、わかりやすいところで、四年前の嘉永六年(1853年)ペリーが軍艦四隻を率いて浦賀に来航した頃じゃ。今から065年前になるかな
へぇえ、ずいぶん昔ですねぇ。御隠居さんはその頃から生きてるんですか
そんな訳はないだろう
それからどうしました
その頃は、軍談席二百二十席、はなしの席七十席と幕末の寄席の最盛期でな、各町内に一軒はあったらしいな
へぇ、それでなんで鈴本っていう名前が付いたんですか
実はな、当時上野界隈は不忍池(しのばずのいけ)がもっと広く、丘が張り出していて、ちょうど小型の横浜と言われていたそうだ。おまけに金沢という菓子屋が近くにあってな、地形が横浜に似ていて金沢がすぐ目の前にあるなら本牧がいいだろうということで本牧亭という名前が付いたんだ
なんだ、洒落で付けたんですか。もう少し重みのある由緒正しい命名があるかと思ったら
まぁっ、寄席らしくていいじゃないか
それでどうして本牧亭が鈴本になったんですか
明治になってな、町人にも苗字が許されて鈴木の姓を名のったところから、苗字の「鈴」と本牧亭の「本」をとって鈴本になったとされているな。はじめは「鈴本」で、のち「鈴本亭」さらに「鈴本演芸場」に変わったんだ
場所はずっと上野なんですかねぇ
軍談席本牧亭は現鈴本の裏手にあったそうだ。鈴本になってからは通りをはさんで反対側に移ったんだ。現在の亀井堂という瓦煎餅のお店があるところだ。現在の場所に移ったのは大正十二年の関東大震災以降ということだ
今の鈴本はビルの中にありますが、あのビルはいつ頃建ったんですか
昭和四十五年から丸一年かけ現在のビルを新築、四十六年に出来上がったな。当初はビルの中の寄席ということで、風情がないんじゃないかと心配もされたが、聞きやすい、見やすい寄席とご好評をいただいたようだ
そうすか、まぁだいたい歴史はわかりました。これだけ歴史が長いと、ほら寄席の主人て言うんですか何て言うんですか、あっ席亭て言うんですか。その席亭も何代にもなるんでしょうね
さっきも話した龍助が初代ということになるな。八っつぁん鈴本の半纏を見たことがあるかい
着ているのを見たことはありやすが、それがどうかしましたか
今度背中の文字をよく見てごらん。龍助の龍の字が染めてあるから。これはよっぽどの通と言われている方でも知らないと思うがな
するってぇと、日本中で知っているのは御隠居さんとこちとらぐらいですね
まぁそうだな。でもインターネットに載せると世界中の人に知られてしまうわけだ。鈴本もインターナショナルになるな
その後はどうなります
初代龍助は長命でな、八十三歳で亡くなったんだ
落語の「短命」って噺からするとね、かみさんがいい女だと短命で、あまりいい女じゃないと長命なんだ。御隠居さんも長命だねぇ
くだらねぇこと言ってんじゃねぇ。没後は二代目龍助1857-1925)が引き継いで、三代目が鈴木孝一郎(1880-1961)、四代目が鈴木満亀雄(1897-1935)、五代目が鈴木肇(1923-1996)、現在が六代目鈴木寧と引き継がれているというのが、席亭の系図だな。中でも三代目の孝一郎の時代がもっとも長く、またもっとも多彩だったと言われているんだ
どんな席亭だったんですかねぇ
明治二十六年、十四歳の時、上州館林から鈴木家へ養子に来て、昭和三十六年六月、 八十一歳で亡くなるまでの六十余年、寄席一筋で生き続けて来た孝一郎の人生は他にちょっと類がないな。寄席芸人のすべてから、“大旦那”としたわれ、この人の世話になった芸人は数知れないと言われているんだ。実は最近この人の放談集とも言える
”寄席主人覚え書”のファイルが出てきてな、今までどんな本にも書いてない面白い逸話が書いてあったんだ。機会が
あったらぜひ読んでみるといい
そういゃぁ、古今亭志ん生の自伝「びんぼう自慢」にこの席亭の名前があったような気がするんですがねぇ
志ん生が大正十年の秋、馬きんの名で真打披露をした時、この大旦那に世話になった話がでてくるな。大旦那のすすめで披露の段取りが決まり、二百円という資金まで貸してもらうが、
持ち付けない大金を手にしたうれしさで、バクチをやり、酒をのみ、女を買って、たちまちスッカラカンになり、披露の当日着物が間に合わなくて、やむなく普段の着物で
高座に上がり、さすがの大旦那をあきれさせたということだ
御隠居さん、御隠居さんもこの長屋じゃ評判の旦那ですよ。何でも知ってて、人の面倒はよく見てお慈悲深い旦那だって。よっ、すごい
おだてたって何も出やしないよ。四代目の満亀雄は若くして亡くなったんで、席亭としては五代目の肇に引き継がれ、昭和四十六年にビルを建てたわけだ
そうですか、よくわかりました。まぁ、お茶も飲んだし羊羹も食べたし、このへんで失礼しますか。わからないことがあったらまた来ます
もう少しゆっくりしてったらどうだい
ゆっくりしたいんですが、忘れねぇうちにメールを送っとかねぇと鈴本に行きづらくなっちまうんで。ありがっとやした
そうかい、じゃまたゆっくり遊びにお・・・お、おい八、そりゃわしの下駄だ。お前さんのはそっちのきたな・・・